JAZZなIZU VOL.2 2021/10/10 ※音楽活動に至るまでの経緯も書いてみました(が長い(笑))

※時系列的に前後しています。(不慣れなため)

6月に始めて開催された 伊豆の

「Butter Note」でのワークショップ。

二回目も当然のごとく参加する。

伊豆の滞在は前回同様、先生の別荘。

リハーサルも結構できたし

ボイトレもしっかりめにできたし大満足です。

このところ急ピッチでわたしのJAZZが進んで

いっているのは、謎がどんどん解けていっているから。

要するにちゃんとJAZZスタンダードを覚えるなら

楽譜から という基本中の基本がなっていなかったから。

それを今必死でやっている。

今更だけれど、「楽譜」が嫌いな私は、殆ど全て

耳コピであった。歌謡曲なんか殆どそうだ。

さかのぼること数十年前の「進路」を決めるとき

何故か音大へ!という話も出た。しかし、音大のテストには

ピアノの初見というものがあり、それがイヤで

音大への道は完全スルーだった。

就職もしにくいよ的なことを言われたというのもあるし

だいたい音楽で身を立てようなどとは

つゆほども思わなかったし。

(結果的に英文を専攻してよかったと今は思ってるし)

でも…

2008年の”あの事件”のときに

それまで蓋をしてしまった気持ちに

はっきりと自分が気づいたのだ。

死ぬ前にやりたいことということが

「音楽」だったということを。

時はさかのぼること1980年代

17歳頃から断続的にやっていた

バンドが解散し、ピンでやるすべも知らず、

その後音楽以外の迷路に

迷い込み、仕事もわけわからない状態になり

(20代の超ハードなOL時代)

そして出来婚、離婚、その他諸々の問題を抱え

ひたすら、自立?の道を模索した30代~を経て

の42歳の時だった。

20代のOL時代の戦友の訃報が届く。脳腫瘍だった。

11月だった。

がんはしょうがない。しかも もう死んだのだ。

生き返ることもない。

そこで考える。

もし、今自分が死んだら後悔するのだろうか?と。

強く思った。

「音楽やってない。死ねない!」

そこから、活動に至るまでにはまだ少し時間が

かかるのだが(2008年当時は息子が小学校だった)

「死ぬまでにやりたいこと」がはっきりとわかった瞬間

だったのだ。

音楽活動を本格的にはじめたのは2015年だが、

(はじめて作詞作曲をしたのが2014年)

怖いくらいとんとん拍子に曲を作っていき

ピアノも弾き語りをするまでになったりもした。

ワンマンも、ノリだけで決めて、大成功だった。

2016年だった。

(実はレコ発、バースディワンマンだった)

JAZZsessionを知ったのも2015年秋か?

なんやかんやと駆け抜けていったなという印象。

それから様々な仕事?が舞い込み、

自主企画ライブやオープンマイクのホスト役、

企画のプロデュースなど、どんどん活動を広げていった。

広げすぎた。

あまりに広げすぎ、サポートもやり、何故かコピーバンドに

も参加するはめになったりして、何やってんだ?

という状態になった。それでもバカみたいに

音楽できるのがうれしかった。何よりライブが

死ぬほどできるのがうれしかった。

そして、調子をこきすぎていたある日、

とあるシンガーの方からお叱りを受ける。

「あなたのJAZZは適当すぎる!」

乃木坂のメルセデスベンツのカフェで。

あの日も忘れられない日だ。

また、ピアノの先生からも

「ちゃんとやったほうがいい」

と同じような助言を受けたりして

はっと気付く。

今までの”なんちゃって”はダメだ!

なんてこった!考えが甘すぎた!

もう”歌ってればそれでいい”を卒業しろ

というサインだったか!!!

と…

ならば

JAZZを ちゃんと キチンと 丁寧に 

やろうと思い、Charito先生の元に行くことにした。

不思議なもので、自分が本物を求めると、

本当に本物に出会えるのだ。

求めよ!されば与えられん。

聖書の一説だが、まさにそうだ。体現してる。

回想してしまったが、Charito先生に張り付く

わけをここで説明しました。

JAZZをやる理由は他にもたくさんあって

一つではないのもここで説明する

小学校の時に合唱部に入り、

中学校でも当然のごとく合唱部に入り、

一年の時にNHK全国学校音楽コンクールで

全国優勝をした。

一年のくせにレギュラーに選ばれたのは

ただラッキーだったからだろうけど、

その時に色んなことを学んだ。

私の声の下地はここで作られていった。

優勝して、レコーディングを体験し、

NHKホールにも立ち、なんだか夢の

ようだったとしか言えないが、

一流をここで味わったのだろうなと思う。

民放のテレビにも出たりした。ラジオにも。

もちろん、合唱部として。

いつの時期だったかうろ覚えだが、

その頃の祝賀会か送迎会で、

たまたま合唱部の先生のそばに座った

そして、その時、誰かが先生に

「先生にとって難しい音楽なんて

もうないんじゃないですか?」

と質問をしていた。

その時に先生がはっきりと答えていた。

「JAZZは難しいですね。」

と。

その時に思った。

もし、自分がそれをできるようになれば、

すごいかもしれないと。

こんなことを思い出したのも

音楽活動をはじめてからだ。

杉真理さんの曲も

JAZZぽい曲がたくさんある。

山下達郎さんの曲も

筒美京平さんの曲もJAZZがベースだと

いうことを知る。

私が若いころの日本の歌謡シーンを彩った

人たちが影響された音楽の下地は

結構な割合でJAZZだ。

だから私もJAZZの恩恵にあずかれば

もっといい曲もかけると思った。

美空ひばりさんが

Lover come back to meを

歌っているシーンをNHKで見て感動したのも

音楽活動してからのことだ。

自分が音楽活動を続けるために

そしてこれから先、

死ぬまで歌い続けるためにはJAZZは必須であり、完成しない

砦であるんだと思う。

音楽活動をする理由は

「歌いたいから」

とてもシンプル。

歌えればいい。それも事実。

でも、歌い続けるためには…

ここからが重要。

”なんちゃって”じゃない本物を

追及したい。

全てにおいて。

作詞作曲もして

自分にしかないオリジナルを

作ってそれを歌う。

じゃないとやる意味がないと思った。

ピアノ弾き語りする理由は

一人でもライブができて

歌い続けることができると思ったから。

ここまで考えるのにもずいぶん時間も使った。

私なんかがやっていいのだろうか?と。

いい年したオバサンが

やっていいのか?と。

でも年齢なんて関係ないんだなと思う。

”やりたい”という気持ちさえあれば

いつだっていつからだって

始めていいのだ。

でも

ピアノも不安だった。

ブランクが長すぎて、手遅れじゃないかと思った。

それでも必死でやればなんとか

なると思った。

すごく素敵なピアニストとも出会った。

(現在のピアノの先生)

自分が決めれば、周りがどんどん動いて行く。

信じられない出会いが

たくさんあった。

それは自分が動いたから。

絶望した30代、暗黒だった。

でもそれがあったから今がある。

もっと研鑽していかないとだ

けれども

それをも糧に、笑いに変え

楽しんで、ちゃんと、丁寧に行きたい。

こんなにもゆっくり、じっくり腰をすえて

考えることができてるのも

「音楽活動ができない状態」

になったからだ。

最初はふてくされていたが、徐々に

自分のやりたいことの取捨選択を

していける環境になった。

一人旅もたくさんして一人の時間を徹底して持った。

他のことをしていても結局

「音楽を続けるためのもの」

を探してる。

オリジナル曲の題材だったり構成だったり、

JAZZのレパートリーの選択だったり、

ピアノの研鑽のための運指だったり

コードの妙だったり。(その他もろもろ)

ここまできたら、もう、何も知らなかった頃の

自分になんて戻る気はない。

このまま突き進んで一生を終えたい。

歌えなくなった瞬間死ぬ

という結末でいい。

と思ってる。

かなりDEEPなことも書いてしまったが

究極ってそういうことかなぁと思ったりする。

ここまで追及できるものがあることの

幸せと出会えて本当によかった。

なんと実りある人生か。

息子が20歳になったら、全てを引退しようと思っていた。

(会社やめて秋田へ帰って隠居生活する予定だった)

でもそれは、生きてるんだか死んでるんだかわからないし

結局何やったって飽きてそのままボケて死ぬんだし。

物騒なことも書いてしまったが、

結局

生きるか死ぬかだ。

ハムレットか?!

でもこう生きたいと思うから

こう逝きたいんだろうな。

どんなダジャレだよ。

大喜利もういいから。

ということで

ワークショップも そこそこコケて

スットコドッコイだったし、

まあ、プロセスとしては申し分ない感じでした。

※要は間違って覚えたメロディが

頭から離れず、へんなメロディラインに

なってしまい、ふがーという感じ。

歌ったのは「Candy」

終わった後、先生もMariも口ずさんでいた。

ということはかなりキャッチーなメロディなんだな。

これは超ヘビロテ決定曲(笑)

今月はこびとさんライブもあります。

曲もなんとなく固まったので完成に向けて

動いていかないと。

コロナの行方も気になるけど、

私の中ではもう終わってるから

世間の流れの通り動くことにします。

ここ数年にないくらい、穏やかなクリスマスと

正月でしょうね(ライブは月イチか、ふた月に一回にした)

余命30年(くらいの予定)

1日1日とても大切にしたい。